イタズラ女神とうさぎのおはなし

序章
光を司る神々によって治められた異界。

その世界に伝わる数々の神話群の中でもとりわけ人々に人気があり、とりわけ特異な物語。
それが「リタの四つのあがない」と呼ばれる逸話である。

この物語が神話群の中で異質だと評されるのには訳がある。
「リタの四つのあがない」には数多くの神々が登場する。
リタに協力する者もあれば、敵対する者もあり、その登場人物の多様さは、この世界に伝わる神話群の体系からは完全に逸脱したものといえる。
そのため、「四つのあがない」をほかの神話群から切り離して、単なる民間伝承である、という声も小さくない。
なかでもリタを導き、彼女に力を取り戻してやったのが——

“人の魔法使い”である。

——という点が研究者間の最大の争点となっている。

魔法使いに関しては、異界から来た、黒猫を連れている、カードのような道具を使う、などのいくつかの特徴が見られるが、この世界においてそのような神の存在はなく、神話の伝承の過程で似た存在の神が変化し伝わったという可能性も低いと考えられている。
それが「リタの四つのあがない」が創作であるという説を生み出す原因ともなっている。

が、そもそもリタという女神じたいもこの世界を治める神々の中では特異な神である点を指摘したい。

彼女は狡知の神、悪戯の神、として表現されることもあれば叡智を象徴とする神として表現されることもある。
よく知られているように、神々にはそれぞれに役割と職責を与えられているが、リタの役割と職責に関しては不明瞭な部分が多い。
その割には、リタは主要な神々に並ぶほどの力を持つと表現されていることが多々あり、実は重要な役割を持っているのではないかとも言われている。
ただそれが何であるかは判明していない。
唯一、はっきりといえることは「四つのあがない」と同様に彼女の逸話には他の神々と比べ人とかかわる話が多いことである。
ある解釈では人に神の叡智を授ける存在なのではないかと言われているが諸説ある中の一説の域を出ていない。
特異な神の、特異な逸話。
というのがこの「四つのあがない」である。

ではここで、「四つのあがない」の前日譚である「四つのいさかい」を簡単に説明したい。
「四つのいさかい」はリタと神々との間に起こった四つの騒動で構成される逸話である。

一つ目のいさかいは——
リタが宝物庫から神々の宝を盗み出したことである。
リタは番人に嘘の用を伝え、代わりに宝物庫の番をしてやると言って、番人がいない間に神々の宝である白銀の鳴子を盗み出した。

二つ目のいさかいは——
リタが狩猟の女神の持ち物である黄金の角を持った鹿を盗んだことである。
リタは女神に絶対に射ることが出来ない兎を見つけたと騙して、女神が架空の兎を探している間に、動物を自在に操れる白銀の鳴子を使い、彼女の鹿を盗み出した。

三つ目のいさかいは——
リタが戦神により捕まり、神々に罰されたことである。
数々の悪事から、リタに罰を与えることが決まり、彼女の捕縛を戦神に任される。
圧倒的な力でリタは捕らえられ彼女の力は三つの神器に封印され、それぞれを毒蠍、番人、狩猟の女神に預けられた。
そして兎に変えられたリタは神々に監視されることになった。

最後の、四つ目のいさかいは——
リタが神々の元から逃げ出したことである。
あらかじめ捕らえられることを予見していたリタは、すでに逃げ出すための準備をしていた。
リタは隠しておいた白銀の鳴子を使い、多くの野兎を呼び出し、それに紛れて逃げてしまった。

それ以降は「四つのあがない」の冒頭へ繋がっていく。
リタが再び神々の元に戻った時、彼女は兎の姿のままだが——

——黒猫を連れた魔法使いと一緒だった。

いろいろと検証すべき点は多く、神話群の中では突飛すぎるが、リタに対する信仰とその人気を下支えしている物語であることは間違いない。
個人的な意見ながら、たとえ創作であったとしても、人々がリタに対する信仰心や愛着からこの逸話を生み出したのならば、そうした神話の伝承の形も否定すべきものではないと考える。

なお、一部の地域ではリタは魔法使いの守護神としても有名である。

第一章 リタ・バニスター
「リタ。リタ・バニスター。狡知の神よ。お前に為せぬことはないはずだ!!」

リタは気まぐれな神だ。
悪戯が好きで、神々を困らせたと思えば人の願いを叶えてやったりもする。
だがその願いは風変わりな言葉でしか彼女に届かない。
まるで挑むような言葉で、無理難題を吹っ掛ける。
すると彼女は——

「失礼なやつね。そんなことなんて簡単よ。見てなさい」

決まってこう言って願いを叶えてやる。
ただしやり方は彼女におまかせで、願いが叶っても後始末が大変な場合が多い。

例えば黄金の鹿と毒蠍を巡る逸話では——

男は病気の妹を抱えていた。
妹の病気を治すためには狩猟の女神が飼っている黄金の角を持つ鹿に毒蠍の毒を与え、薬を作らなければいけなかった。
男は女神に願った。

——どうか黄金の角の鹿をお貸しください、と。

しかし女神は男の願いを断った。
毒蠍の毒を与えれば鹿は万里駆けるという力を失い、角も黄金の輝きを失う。
受け入れられることではない。

落胆する男に旅人が教えてやった。
「ならばリタに願いなさい。ただしお前に出来るものか。そんな風に言いなさい。決して褒めてはいけない。リタは恥ずかしがり屋だ。恥ずかしがって何もできなくなる」

男は言われた通りのやり方でリタに願った。

——お前に黄金の角の鹿を奪えるか、と。

「失礼な奴ね。私に出来ないことなんてないわ!」
その言葉通り、リタは神々の宝物庫から盗み出した白銀の鳴子を使い、狩猟の女神の鹿を奪ってきた。
男は鹿を受け取り、内心では大喜びだったがそれを押し殺して、リタにこう言った。

——ふん。鹿を捕らえることは出来ても、毒蠍の毒を奪うことは恐ろしくて出来まい。

「恐ろしい? そんな感情はとうの昔に忘れてしまったわよ!」
リタは毒蠍に言葉が話せるようになると騙して酒を飲ませた。
そして酔った毒蠍の尾から毒を絞り出して持ち帰った。
それを受け取った男は、今度は喜びを隠さずに言った。

——リタ! お前は素晴らしい神だ。どんな困難でも成し遂げる。

「き、急に褒めてなんのつもりよ。その手には乗らないわよ」
旅人の言うとおりリタは恥ずかしがって男の前から消えてしまった。

男の願いは叶えられ彼の妹の病気も治ったが、リタの起こした騒ぎは大きくなっていた。

狩猟の女神は黄金の角を持つ鹿を探し回ったが、すでに鹿の角は黄金の輝きを失い、他の鹿と区別出来なくなっていた。
女神が悲しみから引きこもったせいで、人々の狩りは滞るようになった。
毒蠍はリタを探して地上に下り、人を襲うようになった。

事態を重く見た神々はとうとうリタに罰を与えることにするが——

それはまた別の逸話である。

第二章 ユスティー・ロー
どんな罪人にも同情の余地はある。
彼らの情状を汲み取り、その罪の軽重を計る。
決して彼らを見捨てない罪人の守り手。

それがユスティー・ローである。

彼女がその役目を負うことになったのには訳がある。
かつて彼女は罪人だった。

彼女の罪。それは復讐である。
彼女は両親の仇を討った。仇を討つべき理由もあった。
両親の無念を晴らしたユスティーは国の王から杯を賜った。
なみなみとその杯を満たしているのは毒であった。
ユスティーの行いは立派であった。称賛されるべきものであった。
だが罪には違いなかった。
彼女は受け取った杯を名誉として、杯の中身を罰として、
一息に飲みほした。
悔いはなかった。

冥府に落ちてからも彼女には罰が与えられた。
あの世とこの世にある川。その川の水を汲み続け、底の抜けた水瓶にいれた。
永遠に終わらない徒労。朝も夜もない世界で、始まりも終わりもない罰を繰り返した。
ユスティーは黙ってそれを受け入れた。
自らの運命を決して嘆きはしなかった。

彼女を哀れに思い、彼女の高潔な精神を得難いものとして尊び、ユスティーは冥府の底より天に迎えられた。
底の抜けた水瓶は取り換えられ、新たな水瓶はどんなに水をいれても溢れることはなく、満たされ続けた。
ユスティーは水瓶に罪人へ与えるべき情の分だけ水を汲みいれ、その水の量に相応しい分の罪人への赦しを願った。

——あなたの犯した罪を聞かせてください。

彼女はつねにこう言って始めた。
罪人であった彼女は、尽きることのない慈悲深さをあふれ出ることのない水瓶に注ぐ。

——どんな罪を犯した者でも守られるべきです。

だがユスティーは決して自らの過去を語らない。
隠すべきこととしてではなく、語る必要のないものとして。
彼女は同情する者であり、同情される者ではない。それは彼女の勤めとは無関係なことなのだ。
それに——

——彼女は罪人であった時ですら一度も同情や憐みを求めなかった。

だから彼女は神々の序列に加えられた。
彼女にふさわしい役目を与えられて。

第三章 ペトラ・リッケ
ペトラ・リッケ。
この神についての神話は少ない。
それは彼女が刑罰の執行者であることと関係が深いのかもしれない。
ペトラを見た者は彼女のことを語りたがらない。
あるいは語ることが出来ない。
彼女の本分は実力行使。
天の裁きから逃げようとする者や刃向う者に有無を言わさず罰を与える。

——強制執行よ。

その言葉を残し、彼女は天意を具現化する。
たとえそれが何者であったとしても——

ペトラの数少ない神話の一つに「渦巻く者」という話がある。

——ある女神がいた。彼女は人に恋をした。
しかし男は、
「人は老いて死ぬ。君はやがて俺を見捨てるだろう」
そう言って彼女の求愛を断った。
神の取る行動は単純で過激だ。
選択肢は二つある。
一つは相手を殺す。
想いが遂げられないのなら、いなくなってしまえばいい
もう一つは力を使い、相手を虜にする。
容易いことだ。
だがその女神は一途で、慎ましやかだった。
彼女は自らの血を混ぜた酒を男に与え、不死の体にしてやった。
男は老いもせず死にもしない体を得ると大いに喜んだ。
そして彼女に見向きもしなくなった。
元からそのつもりだった。
男はその後、不死の体で英雄となり、行きついた国の王女をめとり、王となった。

辱められた女神には過酷な運命が待っていた。
彼女は人に不死の体を与えた罰として海の怪物にされてしまった。

——大人しく処分を受け入れるなんて、偉いわ。
——姉さん。

海に棲みつく水蛇となったペトラの姉はかすかに残った記憶に導かれ、かつて愛した男の国に辿り着いた。
彼女の嘆きは海の大渦流となり、人々を恐れさせた。
男はこの不気味な怪物に何度も討伐の軍を送るがことごとく全滅してしまった。
困った男は天に直訴する。

「あの化け物はお前たちが作ったと聞くぞ。ならば後始末をしてくれ」

そしてペトラが地上にやってくる。
天の意思を伝える前にペトラは男に訊ねた。

——あの怪物に覚えはある?
「ない。忌々しい怪物だ。早く殺してくれ」
——私の顔に覚えはある?
男はペトラの顔を見つめる。かつて自分を不死にした女の面影がある顔を。
男は言った。
「ない。見たこともない顔だ」

——あの怪物は殺すわ。それが天の意思。だから私が来たのよ。

ペトラは水蛇を殺した。それが彼女の役目だからだ。
怪物が退治された喜びから男は三日続けて国中で宴を開いた。
ペトラは宴の最中、男に酒を与えた。
男はかつての事を思い出し、また一つ力を得られると考えた。
その酒には水蛇の毒が混ぜられていた。
男は水蛇の毒により死の境まで苦しみ、不死の体により永遠に死ねなかった。

——哀れな女の血と惨めな怪物の毒であなたは永遠に苦しむ。それが天の意思よ。
——そして、私の……

ペトラ・リッケ
彼女は天の意思を必ず執行する。
恐れも迷いもなく。
それが彼女という存在である。

第四章 エレニ・ビセット
彼女は生まれながらの越境者だ。
生まれて間もない彼女は小さな舟に乗せられて海に流された。
父は誰だか分らなかった。彼女の母は身に覚えのない子を産み、周囲によって生まれたばかりの我が子と引き離された。

小さな舟はとある国に辿り着き、彼女は国の王が飼う鷹に見つけられる。
王と鷹を調練していた鷹匠は二人でその子を育てることにする。
この子はきっと良い鷹匠になる。と
そう冗談めかして王は言った。
二人の父から与えられたのはエレニ・ビセットという名だった。

王の考えは間違いではなかった。彼女はみるみるうちに鷹匠の技を覚えた。だが彼女の技はもはや技と呼ぶ域のものではなかった。
人ならざる者の“力”のようなものだった。
エレニは鷹以外にもすべての動物を意のままに操り、心を通わせた。
彼女を拾った王と鷹匠はそれを頼もしい力と喜んだが、それ以外の者はそうは思わなかった。
「不気味な子だ」
そう陰口を言った。

王と鷹匠が相次いで亡くなるとエレニはその国に居場所を失ってしまう。
再び彼女は旅立ち、越境する。

——本当の父親と母親を探すなんてアタシの柄じゃないな。

求めたわけではなく、強いられたその旅にエレニは目的を定めなかった。気ままに過ごすつもりだった。だが人は持って生まれた宿命には逆らえない。
エレニはすぐに自分の父親のことを知ることになる。

彼女の父親はこの異界を治める存在の一人だった。
会いたいなら会わせてやろうと言われたが、エレニはその申し出を断った。
必要だと思わなかったからだ。
天上で幸せに過ごせると言われたが、エレニはその申し出も断った。
自分が不幸せだと思わなかったからだ。

彼女は父親からは力を受け継いだが、母親からは強さを受け継いだ。

——アタシが不幸かどうかはアタシが決めることだ。捨てられた子エレニ。身寄りのない子エレニ。忌み嫌われる子エレニ。そんなの全部勝手に言っているだけだ。

——アタシには名を与え、育てた二人の父と血と肉を与えた父と母がいる。アタシには四人も愛すべき親がいる。

——アタシを不幸だとは言わせない。

エレニ・ビセット。
天上に止まらず、光を司る神々が治める異界のすべてを旅し、越境する者。
神と人を区別しない彼女は数々の神話にその名を残しただけでなく、彼女の越境とともに神話をその地に伝えた。

第五章 リアーネ・シルヴァン
リアーネ・シルヴァン——

彼女は罰を執行する剣であるペトラ・リッケと罪を測る秤であるユスティー・ローを従え、天の意を体現する。
“無謬の天意”とも表現される彼女は誤解されることが多い。

リアーネの未来を透徹する視線から導かれる考えは深遠である。
多くの者は彼女の真意を理解せず、短絡的な行動に出る。
リアーネは多くを語らず、自らの判断のみを伝える。
多くの者は彼女の少ない言葉の余白に自分勝手な考えを書き込む。
だがリアーネは短絡的な行動に出る者、自分勝手な解釈をする者を彼らのなすがままにする。
決して力で制したり、言葉で止めたりはしない。

苛烈な彼女の裁きに抗う者もいれば、
彼女の裁きを受け入れ自らを戒める者もいる。
寛大な彼女の温情に甘える者もいれば、
心より感謝する者もいる。
リアーネはどの態度が正しいとも言わない。
それぞれが進む道も否定しない。
なすがままにする。

裁きを伝えるだけで人々を善行へと導かないリアーネを無責任だと罵る者もいる。

——果たしてそうだろうか。
無謬の天意とは何なのか。無謬とは何なのか。間違いのないものなどあるのだろうか。
いくら彼女が神々の中で大きな職権を与えられているからと言って、間違いを犯さないのだろうか。
それでもリアーネは間違いを犯さない。
決して犯さない。

——彼女の別の名は“運命”——
運命の真意はわからず何も語らない。
短絡的な行動も、勝手な解釈に対しても、
止めることはない。
抗いも戒めも甘えも感謝に対しても。
肯定もせず否定もしない。
すべてはなすがまま。
それは間違いではない。
与えられた運命の先はそれぞれが作るのだから——
それが間違いか否かは与えられた者次第である。

——あなたへの裁きを伝えます。

リアーネがそう言った時、その言葉は咎人の過去から導き出された運命である。
いたずら者は成長し、女神の姿を取り戻した。
罪人は永劫の罰に耐え、神の序列に加わった。
哀れな女神は愛した男の体の血となり毒となった。
おしゃべりな女神は毒蠍になり、やがて木霊となった。

未来はそれぞれが作ったものだ。

リアーネ・シルヴァン
彼女は無謬の天意。
またの名を運命。
その言葉を、人は受け入れざるを得ない。

第六章 ベロニカ・ジマー
毒蠍の怪物として有名なベロニカ・ジマーもかつては女神だった。
そのおしゃべりな性質ゆえに彼女は毒蠍に変えられてしまい、彼女の言葉に対する執着心は変わり果てたその姿すらも奪ってしまう。

元々のベロニカは伝令の役割を担っていた。
けれども彼女はその仕事を立派にこなしていたとは言い難かった。
彼女はいつも、一を伝えるべきところを十にも百にも水増しして伝えてしまった。それはもはや伝えるべき事実とはべつの何かに変わってしまっていた。
皆、そんな彼女の悪い癖をおおらかに許容しつつ彼女に役目を務めさせていた。

——ある日のこと。
数多い伝令の役目を担う者がそのときはベロニカ一人を残してすべて出払っていた。
ベロニカは死して真名を失った者に授ける新たな真名を生の循環を司る女神に伝える任務を任された
いつもなら彼女には任されるはずのない任務だった。
真名は決して間違えて伝えてはいけない。間違えて名づけられた魂は入るべき器を探し永劫に彷徨うか、偶然同じ真名を持った者の器に無理矢理入り込んでしまう。

結果は惨憺たるものであった。
伝えるべき真名は最初のものとはまったくべつの真名として生の循環を司る女神に伝わった。
それがわかったときはもう手遅れだった。
間違った真名を伝えられた魂は別の魂に入り込み、その出来損ないの魂は毒蠍の怪物となっていた。
彼女は罰として言葉も理性もない毒蠍の怪物という器に魂を移し替えられた。
不運と言えなくもないが、自業自得だった。

——私の言葉を返して!!

その執着だけが怪物となったベロニカに残った。
いたずらな女神に言葉が戻ると言われ、差し出された酒を考えもなく飲んだ。
それが嘘だとわかったとき、その女神を追い、地上に下りた。
彼女の激情は見る者すべてに対して向けられた。見境なく旅人を襲い、国をいくつも潰した。
すべては奪われた言葉を求めるがゆえだった。

本来ならもっと厳しい処分を受けるはずだったが、彼女が地上に下りた事情も酌量され、彼女には交換条件が出された。
神々の国に戻ることを受け入れるならば、代わりに理性と言葉を与えよう。

ベロニカは本能だけでその交換に応じた。

しばらくはそれで満足していた。
が、幽閉された地下に訪れる人は少なく、彼女は次第に不満を募らせるようになった。
時折、こっそりと地上に下りたが、そんなことをしても以前の悪行のせいで人々に恐れられるだけだった。
欲望はつねに拡大していく。

——もっとおしゃべりしたい。

そう考えていた矢先に、やったものを返せと言い出してきた。
すべてを奪われると勘違いし、拒否し、刃向った彼女は毒蠍の姿すら失う
ベロニカを哀れと思った天の裁きを司る女神はベロニカの魂を救い、声だけの存在として地上に送ってやった。

ベロニカは光を司る神々が治める異界の山野において旅人の声に木霊を返し、満たされなかった想いを遂げることとなった。

第七章 バルバラ・フォス
かつて地上であらゆる富と権力を手にした男がいた。
彼はあろうことか天に向かって軍を進める。自らの富と権力を永遠のものとするために、不死の力を得ようとしたのだ。
この不遜な男の軍は光を司る神殿へといたる門の前に辿り着くと、そこを守る巨大な盾を持った女神と相対した。
何者も恐れない男は命令するが如く言った。
「この門を開けよ。俺は神殿の頂点に座する者に会いに来た」

——断る。貴様はこの門より先へ進む権利がない。

男はこれを聞いて激怒し、自らの精強な軍団に門番を攻撃させた。
攻撃は長い時間続いたが、門番の巨大な盾を貫き通すことは出来なかった。
剣も槍も矢もなにかも弾き返された。
男は意地になって攻め続けた。
たった一人の門番すらも退けることが出来ないなど、地上の全てを手に入れたと豪語する不遜な男には考えも及ばないことだった。
男の兵の攻撃は日が昇り、そして落ちるまで続き、それが何度も繰り返されたが、門番には傷一つつけることが出来なかった。兵の中には攻め疲れ力尽きる者、恐れて逃げだす者が現れた。
男の軍は瓦解寸前だった。

そこで不遜な男の側近は助言した。
「あの者に賄賂を掴ませて、ここを通してもらいましょう」
不遜な男はその考えを聞き入れ、彼の持つ富の粋を集めた財宝を門番に差し出しこう言った。
「これをすべてお前のものにするがいい。世界中の奇貨珍品だ。その代りここを通してもらおう」

——なるほど。頂いておこう。

意外にも門番は男の差し出した財宝を受け取った。
男が悠々と門を越えようとした時、門番は男の前を遮り、こう言った。

——お前にここを通る権利はない。

男は驚いた。すべての財宝を受け取っておいて通さなかったのだ。約束が違う。そう思った。

——宝を受け取ったのはお前にやり残したことがあるなどと考えられたくないからだ。通すわけにはいかん。

男は自らの持つすべてを費やしたが、結局、門番を退けることが出来なかった。男が門と門番にかかずらううちに、男は持っていた富と軍の大半を失い、残りの全てを側近に奪われた。
その事実が男から生気と不遜さを奪い、いまや別人のように憔悴しきっていた。
男の命は幾ばくもないように見えた。

——通るがいい。
と門番は男に言った。男はなぜだ、と訊ねた。いまさらなぜだ、と

——ここに来たときのお前は、我々の慈悲を授かるには不遜過ぎた。いまのお前にはその権利がある。
男は門番の言葉を聞くと、力なく門をくぐりその先にある神殿を目指した。光を司る者たちの慈悲求めて。

門を守る者の名はバルバラ・フォスと言った。

第八章 イングリット・レイ
狩猟を司る女神 イングリット・レイ
彼女は用いる弓矢のごとく、静と動という背反する性質を持っている。
それは彼女みずからも御することができないほどのものだ。
指先から離れた弦を止めることはできないということだ。
イングリットの逸話の中に『七尺の的』というものがある。

いたずらな女神のせいで黄金の角を持つ鹿を失ったイングリットはかつて自分に鹿を借りに来た男があったことを思い出した。

——もしやあの男が持っているのであるまいか。

そう考えたイングリットは男の家に様子を見に行った。
しかし彼女は蠍の毒で千里を駆ける力も角の黄金の輝きも失った鹿を他の鹿と見分けることができなかった。
イングリットは男を問い詰めた。

——お前が鹿を持っているのではないか。隠しているならすぐに返せ。

男はわかりました、と言って平凡な鹿一頭連れてきた。
彼は鹿に蠍の毒を与えたことを素直に白状した。

——これが私の……鹿?足も遅いし、角も輝いていないではないか!!

怒ったイングリットは裁きの女神に男に罰を与えることを望んだが、すでにその罪はいたずらな女神が償ったと言われ、受け入れられなかった。
男はせめてもの償いに、とイングリットの家畜たちの世話する役目を進み出る。

——当たり前だ。

イングリットはそういって男の申し出を認めた。

その頃、イングリットの家畜の世話を任されていたのは越境者エレニであった。
一つ所に縛られるのを嫌うエレニは男が自分の代わりを務めてくれることを喜んだ。
そしてちょっとした“コツ”を男に教え、意気揚々と下界に下りていった。

男はイングリットの家畜を甲斐甲斐しく世話した。
その丁寧な仕事ぶりにイングリットも男を認めざるを得なかった。
しばらくして、男は急に暇が欲しいと願い出てきた。

——ならん。貴様は私の家畜の世話をすると言ってではないか。ずっとここにいて世話をしろ。

と言ってイングリットは男の願い出を受け付けなかった。
彼女は男の精勤ぶりから、男を帰したくなくなっていた。
一度帰してしまえば、もう帰ってこないのではないかと不安になった。
けれども男は引き下がらなかった。というのも妹の婚儀が控えていたのだ。
それだけはどうしても出席したい。だがそれが終わればすぐに帰ってくる。
男はそういって再び暇乞いした。
しかし頑固なイングリットはなかなか首を縦に振らない。
そこで男はエレニに聞いたちょっとした“コツ”を試してみた。

「もし七尺先にある的をあなたが射抜くことができなければ私はここに残りましょう。だがもし射抜くことができれば私が妹の婚儀に行くことを許可して下さい」

イングリットは狩猟の女神である。
目と鼻の先にある七尺先の的を射抜くことなど彼女にとって遊びにすらならない。
妙な提案をするものだ、と考えながらイングリットは弓を引き絞り、七尺先の的を狙った。
わざと的を外せばいい。
それだけだ。
そう考えて放った矢は——
見事に的を射抜いた。

イングリットは自分を曲げるということを知らなかった。
出来ることを出来ないようには振る舞えなかった。
彼女は自分のこうした性格からいろいろと損をしているが、厳しい中にある愛すべき一面として人々に親しみを持たれる要因ともなっている。

なお、イングリットは男が帰ってこないのではないか、とやきもきしたが、男は妹の結婚式が終わるとすぐに帰ってきて、イングリットを安堵させた。

第九章 ライナー・バルハウス
ライナー・バルハウスは戦いを嗜み、戦いを愛した神である。
当然、彼の逸話には荒事が多い。
ところがそれとは趣向の異なる『冥府下り』という話もある。

ある時、ライナーは地上から彼を非難する声を聞いた。女の声だった。

「あなたはひどい神だ。私から息子を奪った」

それを聞いてライナーはまたか、と思った。戦争を司る神である彼にそう訴えるものは多い。
だがよくよく聞いてみたら——
女には四人の息子がいたが、戦争によって三人死んでしまった。
最後に残った息子も自分だけ逃げるわけにはいかない、と戦争に行ってしまった。
そして今日、最後の息子の戦死が伝えられた、という。

それを聞いてライナーも一人くらいは返してやるべきだろうと考えた。
しかし、冥府のことでは彼には手が付けられない。
力づくで連れて帰ることもできるが——
無茶をするわけにもいかない。
そこでライナーはリタを捕まえてきて手伝わせることにした。
ついでに物好きなエレニもついてきた。

三人はこっそりと冥府に下りた。
まずは女の子供たちを見つけなければいけないが、当てもなく探してはキリがない。
ライナーはエレニに命じて、冥府の鼠たちに道案内させた。
しかし冥府の隅々を知るはずの鼠たちでさえ子供たちの居場所がわからないという。
いくら探しても見つからないので三人は諦めて、冥府を後にした。
子どもを失った女は毎晩泣き濡れ、ライナーも心苦しかった。

ところがある日、エレニが子供たちを見つけたと知らせに来た。
実は息子たちは戦死してはいなかった。
上の三人の兄弟は戦場から逃げ出し隠れ住んでいた。
末の子は戦場で大怪我を負ったが、小さな村に落ちのび、療養していた。

しばらくして子供たちの前にリタが現れる。
リタは子供たちに母親の訃報を伝えた。
だが誰か身代わりを一人たてて冥府に下れば母親を救うことが出来ると教えた。
三人の兄たちは誰も進み出ようとはしなかった。
同じことを末の息子に言うと末の子は自ら進み出た。
リタは末の子を冥府に連れて行った。

そのすぐあと、三人の兄たちが住んでいた地が戦禍に巻き込まれた。
激しい戦の暴悪は地を荒らし、何者も生かしておかなかった。

三人の兄は冥府に落ちた。
だが母はおろか弟もいなかった。

実は事前に戦争の気配知っていたライナーが兄弟たちを試したのだった。
生き残る権利を与えられたのは末っ子だけだった。
彼は母親のもとに返され、母をたいそう喜ばせた。
彼女はライナーに大いに感謝した。

珍しくライナーが策を用いたという話だが、リタの入れ知恵だという説もある。

終章
「四つのあがない」以後のリタは別の神だという説もある。
元々は別々の話が伝承の過程で一つの神の話にされた。
そう考える人々も多い。
それくらいリタの行動には、以前と以後では一貫性がない。

力を取り戻した後の彼女は自らの犠牲を厭わず人でも神でも区別せずにその知恵を与えるようになった。

——もっとも大きなものとして彼女は人に魔法を伝えた。

彼女が魔法を伝えたことによって、人の生活は劇的に変化した。
利便性は増し、より高度な生活を営むことを可能にした。
当然、功があれば罪もある。
悪用する者、争い事に使用する者もいる。
だが我々は比較的真っ当に魔法の力を利用しているといえるだろう。
今のところリタの試みは成功している。
そう言って過言ではない。

しかし——
魔法は人を神に近づける力である。
それを伝えることは、この世界を治める者たちの倫理に反する行為である。
そのためリタは再び罰を受けることになる。
力を奪われ、兎の姿に変えられた。
二度目である。
この世界に伝わる数多くの神話群の中に二度罰を受けた者は他に一人もない。
それを論拠に別の話が混同したのだ、という者もいる。
逸話が改竄や混淆されることはよくある。
ちょっとした言い間違えが人から人へ伝わっていくうちにその言い間違えが大きくなる、もしくはまったく別の話に変わってしまう。
ましてそれが長い時間をかけて、多くの場所、多くの人を介在して伝わったのならその可能性はより大きなものになる。
正確な所はもう誰もわからない。

神話には人々への教訓や戒めとしての機能もある。
そのため、あまり別の解釈の余地がないように、たいていその結末は一つしか用意されていない。
だが二度目の罰を受けたリタの話の結末には二通りの展開がある。
彼女が兎のままであるという話と力を取り戻したという話である。
彼女は魔法を伝え、その罪から兎に変えられた。
そして長い間、兎のまま過ごしている。
もしくは——
罪を赦され、再び女神としての力を取り戻した。

なぜかその二つが長い間この世界で流通している。
それは地域や時代によってどちらか一方が主流になることはあっても、必ずもう一方も絶えることなく伝えられた。
ある時代では赦されたと語られ、別の時代では赦されなかったと語られた。
ある地域では赦されたと語られ、別の地域では赦されなかったと語られた。
そうやって二つの結末は生き残り続けた。
どちらの結末が主流となるかには、ある程度の法則がある。
戦争や大きな過ちが起こり、人心が疲弊した時、リタは赦されなかったと伝えられる。
人々が平和な時間を過ごしている時、リタは赦されたと伝えられる。
つまり、彼女は我々の罪を担い、我々の代わりに罰を受けている。
人に叡智の炎を伝えた代償として——
彼女は永遠に秤にかけられる運命を担うこととなった。

二つの結末が一つになってしまうことはないだろう。
時代や地域によってすべては移ろう。
良い時もあれば悪い時もある。
出来れば長くリタが赦されているように、人は努力するべきだ。
彼女の最後の逸話は我々への戒めとして——
いつまでも二つの結末の中で揺らぎ続けるだろう。

——だがこれはすべて別の神の話なのかもしれない。
最初の頃の彼女の行動からはかけ離れすぎている。
それは否定しない。
しかし、もしこれが一人の神の話だとすれば、どうだろう。
罪を犯した者が改心し、人々のかわりにその罪を背負うようになった。
解釈は人の数だけあるが——
そう考えた方が面白い。
誰でも成長するものだし、成長は人を喜ばせる。

この世界に伝わる魔法は、彼女を助けた黒猫の魔法使いの使う力と似ている。
彼女なりの友情と感謝を示したのだろうか。
そうとれなくもない。
どう考えるかはそれぞれの自由だが——
友情をないがしろにする者がいるだろうか。